組織
パリ本部
フランス共和国大統領の後援を得てパリに本部を置くフランスの公益社団法人
名誉会長 | ガブリエル・ド・ブロイ(アカデミーフランセーズ会員、フランス学士院名誉総裁) |
---|---|
会長 | ドニ・ファダ(国際上級公務員、大学教授、海外科学アカデミー会長) |
事務局長 | クリスチャン・オリーブ |
URL | WWW.larenaissancefrancaise.org |
日本代表部
名誉会長 | フィリップ・セトン駐日フランス大使 |
---|---|
名誉会長 | 松浦 晃一郎(国連ユネスコ第8代事務局長) |
会長・副会長 | 会 長 瀬藤 澄彦 副会長 伊藤 朋子 副会長 森 由美子 副会長 小林 美知子 副会長 星出 義夫 会長・副会長補佐 山口 邦子 |
理 事 | 山田 朋子 堀尾 藍 山岸 一茂 田中 映美 藤原 邦一 竹内 和芳 多田 多延子 岩間 初音 中野 眞帆子(海外) 畠山 奈保美(海外) |
監 事 | 谷口 恵津子 荒木 誠 |
顧 問 | 篠塚 隆(名誉顧問) クリストフ デアージュ(特別顧問・ルクセンブルク代表部会長) 犬塚 エブリーヌ 田村 道 |
栄誉賞審査委員 | 委員長 中島 厚志 委 員 渡辺 真美 委 員 篠塚 隆 |
連絡先 | 〒106-8514 東京都港区南麻布4-11-44 在日フランス大使館領事部内 |
info@rfjapon.org |
歴代名誉会長
創設者名誉会長
- レモン・ポワンカレ(アカデミー・フランセーズ会員、フランス共和国大統領)
- ポール・アペル(学士院校長)
- ルイ・ユベール・リヨテ(アカデミー・フランセーズ会員)
歴代名誉会長
- ジャック・アルセーヌ・ダルソンヴァル(コレージュ・ド・フランス教授)
- ユベール・ダンドゥロ・ド・オンブルグ(上院議員)
- ルイ・マドラン(アカデミー・フランセーズ会員、下院議員)
- ジョルジュ・リスレール(アカデミー・フランセーズ会員)
- オーギュスト=エドゥアール・イルショエル(将軍、理工科学校卒)
- レオンス・アルムブリュステル
- ジャン・ババン(大学区長)
- モーリス・シューマン(アカデミー・フランセーズ会員、元大臣)
- シモーヌ・ヴェイユ(アカデミー・フランセーズ会員、元大臣)
ジャック・アルセーヌ・ダルソンヴァル(コレージュ・ド・フランス教授)
1851年6月8日オート・ヴィエンヌのラポルシェシュリで生まれる。医者である父親の跡継ぎとして育てられた。リモージュのリセを卒業後、パリ大学で医学を学びフランスにおける医学研究所の最高権威クロード・ベルナール及びブラウン・セカール両研究所の助手を務める。1876年医学博士論文の完成後、彼の全キャリアは、コレージュ・ド・フランスの生物物理学研究所所長職を全うするまで特に物理学の分野に捧げられた。また彼は高等電気学校の設立にも貢献したが、彼の発明は医学で使用される電流とTSFに関連している。さらにフランス郵政省初の電話事業、魔法瓶、ガス液化などの開発に貢献した偉大な学者、大学教授、研究者として知られる。晩年は故郷の村に引退し、1940年12月31日に他界。
ルイ・マデラン
この偉大な歴史家は、1871年5月8日にヴォージュ地方のヌフシャトーで生まれた。ナンシー大学文学部、高等師範学校、エコール・デ・シャルト(歴史を専門とするグランゼコール)を経て、歴史の大学教授資格を取得、その後フランス・ローマ学院(フランス国民教育・青少年省の管轄下にある歴史、考古学、人文・社会科学を専門とする公共研究機関)の研究員となり、パリの文学部で教鞭を執る。1914年8月に少尉として歩兵と大本営に動員された後、ゲール勲章を受章して復員した。彼の歴史家としてのキャリアは、革命と帝国の時代、特に記念碑的な『統領政府と帝政の歴史』に関する重要な出版物をもたらした。1924年にはヴォージュ地方選出の国民議会(下院)議員となり、1927年にはアカデミー・フランセーズのメンバーとなった。1956年8月18日、パリで死去。彼の立派な軍事活動、歴史への関与、学問的活動における献身的な取り組みによって、ルネサンス・フランセーズに認められた。
オーギュスト=エドアール・イルショエル
この優秀な軍人は1857年6月16日、モーゼル県サンアヴォルドで生まれる。ドイツ領となったこのロレーヌ地方を後にカレー市に転居した。1876年、理工科大学校を卒業、工兵技術軍事で成功を収めサン・シール陸軍士官学校、次いで海軍兵学校で教授となった。高等戦争大学校を首席で卒業、シャレ・ムードン飛行船気球開発機構本部で気球陸軍少佐として指揮を取った。1912年には航空軍事監査官に就任。従って彼はフランス軍事航空産業の創始者の一人である。第一次世界大戦では軍事少将としてパリ要塞都市の工兵隊のリーダーとなり、自ら戦線に赴き将軍としてウルクとベルダンの闘いには中将として参加、1917年にはクラオンヌ、シュマン・デ・ダムに赴いた。休戦の後、ストラスブール知事に就任した。そこでルネサンス・フランセーズが彼にとって重要となる。1920年、生まれ故郷のモーゼル県の上院議員選挙に立候補、2回再選された。国会議員としてとくに軍事と航空の諸問題に情熱を傾けた。1943年12月27日ベルサーユで他界。
ジャン・ババン
1905年2月26日ムーズ県モンフォコン・ダルゴンヌに生まれる。学業をバー・ル・デュック(ムーズ県の県庁所在地)にて開始し、ナンシー大学文学部に入学。最初は学区(アカデミー)の視学官であったが、大学で言語学者としての道を進み始めた。ルゴンヌ地方の方言の専門家となった後、その地の地名研究も行うようになった。リール大学の教授となってキャリアを積み上げ、ストラスブルグ学区の長となり、そこでルネサンス・フランセーズの飛躍に寄与。その後ボルドー学区長を務める。生まれ故郷のヴァレンヌ・アン・アルゴンヌに戻り引退生活を送る。その地で1978年12月14日に息を引き取った。
モーリス・シューマン
1911年4月10日パリに生まれる。ソルボンヌ卒業後、有能なジャーナリストとして1935年アヴァス通信社に勤務。1940年6月21日以降、ロンドンのドゴール将軍に合流し、亡命政府「自由フランス」による「フランス人よりフランス人に告ぐ」という有名なラジオ放送での呼びかけを行った一人となる。千回を超えるラジオでの呼びかけの後、英国軍とともにノルマンディに上陸、第2機甲師団に合流し、パリ解放に参加した。1944年の「人民共和派(運動)」創設に貢献、この党から出馬し1945年ノール県選出の国民議会議員(下院)となる。政治家としてのキャリアを歩む間、彼の信念は欧州キリスト民主主義とドゴール主義との間を揺れ動いた。第四共和政の5つの内閣にて外務副大臣を務める。また、ジャック・シャバン=デルマスやピエール・メスメル内閣で外相になるなど、何度か大臣に就任。政治家としてのキャリアを通じて、多くの随筆、小説、回顧録を執筆。この功績が認められ1974年ヴラディミール・ドルメソンの席を譲り受け、アカデミー・フランセーズ会員となる。その後ノール県の元老院議員(上院)として選出、1998年2月9日に亡くなるまで議員として務めた。作家、ジャーナリスト、レジスタンスであり、責任ある政治家、優れた指導者であったモーリス・シューマンをルネサンス・フランセーズがその名誉会長とするのは当然至極だったのである。