歴史(会長メッセージ) | ルネサンス・フランセーズ 日本代表部| La Renaissance Française au Japon

歴史(会長メッセージ)

世界平和とルネサンフランセーズの役割

平和主義者レイモン・ポワンカレ

平和主義者レイモン・ポワンカレは1860年に生まれた。フランスとドイツの 3 回の最初の戦争は 1870 年 7 月 19 日に勃発した。ポワンカレ大統領は1913年2月18日にフランス共和国の大統領に選出された。彼の任期は1920年2月18日に終了した。

これらのいくつかの日付と出来事だけでも、レイモン・ポワンカレ大統領のこと、ルネサンフランセーズの始まりのことなどが非常によく理解される。何故なら彼、ポワンカレーこそその創設者だったからである。

彼はロレーヌ地方で彼の祖先と同様、ここで生まれた。彼は深くロレーヌ人ということを自覚して、生涯自分のこの出身地に愛着を示し続けた。同じくロレーヌ人であるピエール・ガゾット[*1895-1982 歴史家・ジャーナリスト]とともに次のように言ったものである。「自分がこの村の出身であることを忘れることなどとてもできない。確かに村は変ったし、私も村を出ていって、今、こうして年を取ってしまったけれども、いつも自分の心のなかに故郷としてあって忘れたことはない。もしそれを自尊心のために言っているとすれば私はおろかなものであろう」と。

戦争が勃発したのは彼が10才になろうとしたときである。彼はその戦争で敗北したことの証人であった。ロレーヌ地方は分断されドイツとの国境はドイツ領に変更されてしまった。この時、彼は多くのアルザスとモーゼルからひとびとが避難民として逃避してきたこと、そしてその苦難を目撃したのである。そして1874年までプロシャの占領が続いたこととそれに伴って味わった屈辱を経験したのである。このことは生涯彼の人生に影響を与えたのである。

彼は公共教育大臣、財務大臣、外務大臣、共和国大統領になった後でも閣僚評議会議長[*政府の長]など多くの要職に就いた。誠に極めて例外的に要職のポストにとどまって政治家を長期間に努めた。共和国大統領の任期終了の前にも上院議員に選出されており、亡くなる少し前にも再選された。74才で亡くなったとき40年間の議員生活と48年間の政治家を休むことなく務めてきたのであった。選挙で敗北したことはなかった。

49才のとき、彼はアカデミー・フランセーズに選ばれた。実はこの前の年、彼の政治的な敵対者たちは彼の従弟で、物理数学者で哲学者でもあったアンリ・ポワンカレを選出した。これでアカデミー・フランセーズへの道は閉ざされたと思った。それは骨折り損の考えであった。結局、アンリ・ポワンカレも選ばれているように、レイモン・ポワンカレも選出されることになった。その秀でた知性とその強い信念によって、常に存在感を発揮していた。

ドイツとの真の平和追求

ポワンカレは心からの平和主義者であったが、戦争に入らざるを得ないことを決断するしかなかった。1913年、彼が共和国大統領に選出されたとき、緊急事態を告げる情報として彼の元にドイツが再軍備するという知らせが届いたのである。彼はフランスの同盟国との関係を確保たるものとするために頻繁に諸外国を訪問した。ドイツは1914年8月3日、戦争を布告したが、そのドイツとの戦争が始まる15日前、彼はロシアにいた。

そして戦争が勃発する。彼は惜しみなく奮闘したが、フランスではこの戦争の間に10回も内閣が交代した。1914年8月4日、「神聖連合(あるいは神聖なる同盟)」[*国内諸勢力間の、特に労働運動・社会主義運動と政府との間の協力関係]を宣告したが、それぞれの党派的なやりとりが絶えなかった。敢えて言うならば彼は唯一の「不動」のひとであった。かれは少し孤独を感じたが、一切、くじけなかった。彼はさらにそのエネルギーを振り絞り、しばしば前線にも出向いた。説得に講じ、熱意を燃やしていた。1917年からは偉大なジョルジュ・クレマンソーとも歩調を合わせるようになったが、彼は少なくとも友達のひとりではなかった。

彼は戦時の共和国大統領となったが、平和を構築するという考えは決して変わらなかった。彼はまず平和を勝ち取り、それから自由に解放されたところでひとびとの心をつかもうとしたのである。

1914年の終わりから1915年の初めまで、彼の周りにはひとつの小さなグループが結成された。そのグループは、やはりロレーヌ地方出身であったジョルジュ・ルクルティエが引っ張っていた。このグループはすでにこの時に占領破壊されていた地域の再建とひとびとの間に持続ある平和の機運を樹立させようと考えを巡らせていた。ポワンカレは非常に先見の明があり、堅く勝利を信じていたが、その先に彼は何としてもフランスとドイツの真の和平を構築しなければならないとした。このために敵を辱めることなく勝利しなければならないと考えた。彼は従ってドイツに対する重い制裁には反対であった。

また同様にドイツ占領から解放されるひとびとに対して何か行動しなければいけないとも感じていた。この第1次大戦州終了時にはアルザスとモーゼルのひとびとは50年間も、その故郷をドイツ人に占領されていたのである。ドイツは当時、徹底的なドイツ語化政策を進めていた。その結果、この占領地域のひとびとのほとんどはフランス語を理解できなくなっていた。ポワンカレはこの時、次のように述懐している。「2つの欧州の強国に激しく揺さぶれられた哀れなひとびと」と書き残した。

ルネサンス・フランセーズの歴史的生い立ち

平和を構築していくためにフランスの言語と文化を普及させると同時に、ひとびとの心を掌握しなければならなかった。それがルネサンス・フランセーズ運動の基礎となり、そのために当時は「アルザス・ロレーヌ・ルネサンス・フランセーズ」という地域のついた組織の名前が冠せられた。

実は1913年以来、公共教育監督官であったギュスターヴ・フィリポンはルネサンス・フランセーズの構想案を携えていた。彼がポワンカレに提案して、1915年にルネサンス・フランセーズは設立されて、翌年の1916年4月5日にはその定款が登記された。この時、まだドイツ軍のヴェルダン攻撃が同年2月21日に始まったばかりであった。

なんという忍耐、決意であったことか。戦争の真只中においてもポワンカレは平和を常に模索していたのだ。これはまさに彼固有の天才的な才能であった。彼はこの発足間もない初のフランス語普及を目的とする組織を共和国大統領の後援協賛のもとに置いて、大統領を退いた後に自らが初代の名誉会長に就任したのである。

ポワンカレと一緒にこの発足の洗礼盤に名を連ねたのはアルザスとロレーヌの著名な偉人たちであった。ユベール・リオテー[*フランス元帥]はロレーヌ、ポール・アペル大学長はアルザス、ジョルジュ・リスレール[*実業家]はアルザス、というそれぞれの出身地であった。ルネサンス・フランセーズはこの時、公益法人としてすでに外務省、戦争省、内務・国立教育省よりの後援を授けられていた。

2つの任務を表す組織の標章とロゴ

このような政府からの後援自体が、われわれの団体組織がどのような精神で設立されたかをよく物語っている。とくにその組織の標章やロゴなどはまさにオリーブの枝葉と平和のシンボルである月桂樹を取り混ぜたものとなったのである。

ポワンカレはルネサンス・フランセーズに2つの任務を委託した。ひとつはもう一度、フランス語とフランス文化を自由になった占領地域にもたらすこと、もうひとつは欧州と欧州を越えた世界における平和の樹立とその恒久化をもたらすことであった。

創立以来、ルネサンス・フランセーズはアルザスとロレーヌの両地域で首尾よくことを進めることができた。ポワンカレ大統領夫妻はルネサンス・フランセーズが引き取った子供たちの後見名付け親にもなったのである。戦争終了後すぐにドイツと接触を始め、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビア、レバノン、エジプトとのつながりを作って、これらの国からのフランス留学を支援したのである。

世界40カ国に代表部設置の理由

今日でもルネサンス・フランセーズは、フランス語圏の教養文化の伝搬、その歴史遺産の保護(無形遺産、環境、風景)、地域や地場の文化の振興、手工芸職業の推進、「分散したフランス語圏共同体」(OIF :国際フランス語圏機構による再定義)に対する援助、少数言語の保護と救済、などを通じて平和のための諸活動を継続して行っている。これはすべてほかの諸文化との対話、交流、分かち合いの精神に基づくものである。

なぜなら、ルネサンス・フランセーズが世界のすべての大陸においてフランス語の普及と、フランス文化とフランス語圏文化の拡大に参画しているとしても、われわれの組織は全くほかの言語やそれらの文化とはライバルの競争関係には全くないからである。それとは全く逆にルネサンス・フランセーズは他の文化を紹介し、われわれの文化との対話をさせるように必要とあれば尽力している。フランス以外のルネサンス・フランセーズ代表団はその活動を行っている国の文化とフランス文化とフランス語世界の文化とを引き合わせることに腐心している。

これが、ルネサンス・フランセーズがフランス国内の組織に加えて、その大部分がフランス語圏の国でもない約40カ国に代表部を設置している理由である。アルメリア、ロシア、米国、アルゼンチン、コスタリカ、ブルガリア、セルビアなどの国々がそうであった。今後は日本もそうである。ルネサンス・フランセーズの定義するフランス語圏は、制度的な国際フランス語圏機構が構成する現在88カ国の国や政府に限定することなく、この地球でフランス語世界の文化において互いに認め合い、あるいはそのようにフランス語文化を知りたいとするひとびとすべてに開かれたものである。

このような多様性は多くの違った国籍の方々にも参加頂いている理事会にも反映されている。シモーヌ・ヴェイユはフランス・アカデミーの会員であったが、ご逝去されるまでルネサンス・フランセーズの名誉会長でもあった。大部分のルネサンス・フランセーズの名誉会長はアカデミー・フランセーズの会員であった。とりわけ、ポワンカレ、リヨテー、ルイ・マドラン、ジョルジュ・リスレール、シモーヌ・ヴェイユの前任者だったモーリス・シューマンなどの有力者を挙げることができる。そして現在の名誉会長であるガブリエル・ド・ブローユ公はアカデミー・フランセーズと倫理・政治学アカデミーの両方の会員であり、またフランス学士院の名誉総裁でもある。

フランス語、歴史遺産、少数言語の支援

多くの活動や企画を通じてルネサンス・フランセーズは日々、ひとびとが出会い、接触し合うように活動を展開している。

今日、ルネサンス・フランセーズの文化活動と連帯活動は非常に拡がりを見せている。ルネサンス・フランセーズは、すべての面に渡って、フランス語と、フランス文化とフランス語文化の普及、そして申し上げた通り歴史遺産の保護に協力している。さらにフランス語圏世界の価値観、文化の多様性の尊重、文化面の対話、そして言語的少数者への支援などを推進協力している。

われわれの組織はパリ本部、約20あるフランス国内の支部、それとフランス国外の代表部が一丸となって多彩な数多くの率先した活動によってこれらの推進協力を行っている。例えば、ブルターニュ地方では高校生を対象に水の問題を世界3大陸で取り上げる「アカマテール」(Aquqmater)プロジェクトを立上げ、米国では2016年世界のフランス語圏から約400人の作家をセントルイスに招請したり、メキシコではフランス語圏協会を設立、イタリアでは国際フランス語圏機構(OIF)の支援を得て、小さいながらも南イタリア・フランス語大学(UFIS)を設立、決してフランス語を消滅させてはならないとして2つの南イタリア市町村で750年前から話されているプロバンス・フランス語の保護することもなども行っている。

言語の多様性への闘いは文化の多様性に密接に絡んでいる。何故なら言語というのは文化と全く同様に、われわれが保存すべき人類全体の遺産であるからである。言語的な多様性なしに永続的な文化の多様性はありえない。言語の多様性は多党派主義が政治的民主主義であるように、文化の多様性そのもののためである。

ルネサンス・フランセーズは多くの大学と提携関係を結んでいて、アレキサンドリア・サンゴール大学、ナポリ・フェデリコ2世大学、ラバト国際大学(UIR)、ハンガリーのセゲド大学、などと交流している。サンゴール大学とテラモ大学と一緒になってアフリカと地中海の開発協力というマスター修士講座を設けている。これはやがて「マテラの地中海会合」が結成されることにつながり、そこに地中海世界の知識人が集うはずである。さらにその内、すべての国の大学関係者を集まるであろう学際的研究学会であるルネサンス・フランセーズ国際大学サークルも誕生する。ギニアでは、私たちの代表団が「コナクリ、世界図書の都 2017-2018」の要となり、スポークスマンとしての役割を果たした。

幅広い学術支援活動

われわれの組織は毎年、母国語がフランス語でない作家によるフランス語の作品を表彰するためにルネサンス・フランセーズ文学賞を授与している。すでにイタリアン人女性、ヴェネズエラ人男性、ヴェトナム人女性が受賞している。さらに毎年、とくにその秀でた作家の作品に対してメダーユ・ドール(金メダル)勲章を授与もしており、これまでアルジェリアのブアレム・サンサル、スコットランドのケネス・ホワイト、ベルギーのジャック・ド・デッケー、ギリシャのヴァシリス・アレクサキス、そしてこの前の10月には日本の水林章、の各氏を表彰した。

ルネサンス・フランセーズは海外領土県科学アカデミーとの協定に従ってルネサンス・フランセーズ賞を(直近ではアリジェリア人を表彰した)、マジノ線連盟との連携によってもう一つの賞を授与している。さらにフランス語圏国際大学やラバト国際大学との協力で博士あるいは修士論文賞も授与している。

ルネサンス・フランセーズではこれまでフランス語を話すひとびととフランス語を話さないひとびとも全部集めてシンポジウムやラウンド・テーブル円卓会議を開催してきた。例えばモロッコの首都でパリ政治大学院(Science Po)と共催して「政治言語としてのフランス語、外交言語としてのフランス語」あるいはフランス語のモロッコ文学、ローマではフランス大使館の館であるパラッツォ・ファルネーゼ宮でレジオン・ドヌール賞総裁の列席を賜った「欧州と危機後」あるいは「大戦時のイタリアとフランス」、またローマのパラティーノの丘では「追憶と忘却の狭間にある破滅」といった会議を開催してきた。まもなく、ハンガリーのセゲド大学あるいはテッサロニキで、バルカン諸国の研究者が一堂に会し、「フランス語圏バルカン文学における第一次世界大戦」をテーマに議論する予定である。

これらは、人々がお互いをよりよく理解し合うために行われた数々の行動と協力、さまざまな企画についての簡単な概要にすぎない。

平和構築の行動とは「世界が崩壊することを防ぐこと」(カミュ)

ルネサンス・フランセーズではいつも言われていることですが、「互いに知り合うことが相互理解につながり、それが世界平和に貢献する」と。平和を語るには、その脅威、人権侵害、紛争の勃発を待っているだけではいけないのである。

平和は構築されるものである。平和というのはひとつの努力の結果であり、それはまさにさまざまの平和に向けた事前の行動を必要とするのである。

人間において本質的なことはその文化と言語である。これらのことに抵触し侵害するようなことはまさに戦争を引き起こす原因を醸成するものである。これは歴史上、多くの事例が示している。

ストックホルムでの1957年ノーベル文学賞授賞式の講演でアルベール・カミュは次のように述べた。「それぞれの世代は世界を再構築しようと思案に暮れているが、私の世代は世界が再構築されないことを知っている。私の世代が背負っている任務はもっと大きく広いものである。それは世界が崩壊することを防ぐことである」と。

ルネサンス・フランセーズではいつもこの言葉をその精神に抱いている。

世界会長ドニ・ファダ
※本稿は2019年2月5日、日仏会館ホールにおけるご講演の全文のフランス語訳である(訳・瀬藤澄彦)

PAGETOP
ページトップヘ